「どうか傷ついてまいってしまわないように…」についてー「星座と出会い系、もしくは絵画とグループ展」より

金藤みなみ

「星座と出会い系、もしくは絵画とグループ展」展示写真 ©ParplumeGallery 2019
「星座と出会い系、もしくは絵画とグループ展」展示写真 ©ParplumeGallery 2019

私とユササビの出会い

 まず、私とユササビ(堺友里)の出会いについて説明したいと思う。

 2015年、私が阿佐ヶ谷のTAVGALLERYで自作品のスクリーニングイベント (※1)をしていた時に「徳島関連」であり同時代作家であるという理由で彼女は来場してくれた。「徳島のアーティストで東京に出てきている人ってなかなかいないんですよね。」と、彼女は私に興味を持った理由を話してくれた。しかし私は、「実は、生まれは徳島ですが、家族が転勤族で、物心ついた頃には他県にいて…」と、申し訳なく思いながら言った。私は徳島から東京に出てきたアーティストではないが、徳島という関連で私を見つけてくれたユササビ。今思い返せば、あの出会い方は、まさに、「出会い系」のような会話の切り口だった。私にとって「出会い系」は、好奇心が始点となるものだった。このイメージは小説や漫画などのフィクションやインターネット上の経験談等から知ったことで作られたものだ。「出会い系」なるものには大抵お互いを知るための会話に順番があり、住んでいるエリアや好み、仕事、出身地などから話が広がっていく。

 私は彼女の思った出身でこそなかったものの、彼女と「出会い」、そして、彼女の作品を鑑賞し続け、今に至る。

2017年の展示について

「どうか傷ついてまいってしまわないように、、」展示写真 ©yusasabi 2017

 本展で展示された「どうか傷ついてまいってしまわないように…」が初めて展示されたのは、2017年10月のことだった。野方の空白(※2)というスペースを会場に行われた彼女の個展だった。商店街の中にあるスペースの白い壁を這うようにピンク色の紐は打ち付けられていた。細かいことだが、当時のこの作品のタイトルは、「どうか傷ついてまいってしまわないように、、」であった。私からすると、この読点の連続は、スマホのキーボード入力の特性によって生まれたものであり、相手にフランクに甘える印象を与えるように思う。パープルームギャラリーの展示では「、、」の部分が「…」となっていた。この三点リーダは先ほどの読点に比べて少しフォーマルだと個人的には感じるためこの作品は2回目の展示で、ややフォーマルになったのではないだろうか。

 この作品は縦長のキャンバスを用いている。上下に黒い絵具で黒い帯のように線が引かれており、スマートフォンの画面を思わせる。途中で、ティンダー(いわゆる「出会い系」アプリ。ユササビが使用してる)で自己紹介をする際に緊張する感じや、あえて大胆な言葉を使うことで、相手にぐっと近づこうとするようなメッセージが綴られる。

 「LIKE」から始まった糸は、タイムラインの様に「LOVE」という文字を形作ったあと、最後に「BLOCK」と書かれた紙へと行きつく。LOVEのVのあたりで、小さな紙に書かれたメッセージは様子がおかしくなり、いらつき、相手を傷つけるような無作法な言葉が飛び出し、最後に別れを告げる。当時の私は、恋愛に盛り上がり、そして、傷つけられていくユササビの様子を想像して、胸が痛くなった。

 私はこの作品の時間軸の最後の方の、糸で綴られたLOVEの「E」のあたりについて考えた。ユササビにとっては、真剣な恋愛の破局。私にとっては、遊びの恋愛の終わりに思える場面。私は「出会い系」で出会うということ自体の終わりを軽く考える傾向がある。人によっては「出会い系」で出会うことは一つの人間関係の始まりであり、「出会い系の終わり」は人間関係の終わりなのだが、私は「出会い系は遊び」という偏った考えから抜け出せなかった。この齟齬が、私がユササビ作品を鑑賞する際に抱える小さなノイズにつながるのだが、これは後述する。

「出会い系」に対する価値観のギャップ

 私は美術の文脈の中で彼女の作品を見た時に、このストーリー仕立ての作品を、「最低限の物質を使った、時間軸を一目で伝える構成作品」だと思った。映像作品ではないので、始まりから終わりまでを順番に見る必要はないし、遠くから見て全体の始点と終点を一度に視界に納めることも出来る。時間を必要ともしないが、長時間見ることも可能だ。

 今作を、ソフィ・カルが1999年~2000年に行い、2019年に原美術館でフルスケールで再展示された作品でもある「限局性激痛」と比較してみたい。カルは、この展示について、「ありふれた別れなのだが、とはいえ、私にとっては、それは人生で最大の苦しみだった」と語る(※3)。 客観性を伴った自己観察と、最大の苦しみを作品に用いることの2点において、カルとユササビの作品は似ているように思う。しかし、カルが治癒に重きを置いているのに対して、ユササビは治癒ではなく出会いから別れまでの恋人から自身に送られた言葉にフォーカスしている。さらに、カルが多様な第三者を介入させているのに対し、ユササビはあくまで1人で制作する。カルが第三者に癒されていく様子と比較して、ユササビの物語は、鑑賞者には入ることが出来ない領域であるように感じられる。ユササビの作品に続きがあるとすれば、その後「BLOCK」を解除されたかもしれないし、また新しい好きな人を見つけたかもしれない。しかし、続きは語られず、「BLOCK」で完結している。これが、カル作品とユササビ作品の大きな違いだ。

 癒されることなく、閉じられた物語であるので、第三者の介入によって癒される過程を拒否しているように見え、厳めしい美しさすらあった。時間はどの人にも平等に与えられているが、一般的に楽しい時間はあっと言う間に退屈な時間はじりじりと遅く感じるものだ。恋愛においては、まるで社会の時間軸から切り離されて二人きりの時間が流れているかのように一瞬で過ぎることがある。このような描写は、小説や映画の中で展開される恋愛の一般的な描き方だろう。ユササビは「BLOCK」の後の救いの物語を仄めかすことなく、ばっさりと物語を閉じることで、絶望的な物語であっても、二人きりの偏った物語とその中で流れる二人だけの時間にスポットを当てている。作品の中の時間は、これ以上進むことは無い。人生であれば「時が解決してくれる」という慣用句があるように「BLOCK」以降の物語によって癒されることもあるだろう。しかし、この作品は今後何度再展示されるとしても、癒される時間を付け加えられることはない。

 あくまでも作品の話に過ぎないのに、私は悲しく、無意識に怒りを覚えていた。作品と作家がごちゃ混ぜになって、冷静ではいられなかった。頭では、その二つが全く一緒では無いとわかっているのに、この苛立ちはどこからくるのだろうか。

 概して言えば、私は「作家のふるまい」へのバイアスが掛かった念望と感情があったということになる。ここから、苛立ちが来ていたのだ。この心緒は小さなノイズだろうと思っていた。

 しかし、この小さなノイズによって、読み手が感情的になってしまい、正確には読み解けないということそのものがこの作品には重要なことなのだろうと最近は追考している。私のざわつく感情は「出会い系」に対する価値観のギャップに端を発しており、「私の先入観に基づいた形の彼女の幸せ」を希求する、ある種のエゴとしてあらわれたものだ。  

2019年の展示

 さて、相模原のパープルームギャラリーで行われた今回のグループ展に戻る。ユササビ作品「どうか傷ついてまいってしまわないように…」の一度目と二度目の展示の大きな違いは、前者が個展で、後者がグループ展で発表された作品であることだ。

 ユササビの作品は、パープルームギャラリーの入口からまっすぐ正面の壁に飾られていた。ギャラリーの壁の色がユササビ作品にあわせたかのようなブルーになっており、様々なイメージを想起させる(※4)。明るくも、陰鬱にも見え、他の作品にも影響を与えているように見える。他の作家、例えば金海生が

私小説的な作品づくりに不快感を覚え、絶えず変化することを受け入れながら制作してきたと言う。(※5)

という解説を読むと、私小説的ともとれるユササビ作品がそばに置かれていること自体が面白く感じられる。また、小林正人の作品は、小林の著作である「この星の絵の具[上]一橋大学の木の下で」を読むと、小林が絵を初めて描くきっかけとなった高校の憧れの「せんせい」の死を知ることとなり、ふと、悲恋の持つ物語性と、ユササビの作品がシンクロし、悲劇性が増長して見えた。小林の今作は、

自分の絵を自由に描くためには、四角いキャンバスは窮屈だったし、構造を変えなければいけなかったから。フレームをつくる、キャンバスを張る、描く、それを全部一緒にやることにした。(※6)

と小林が言うようなスタイルを継続している。三つの工程を平行することによって生まれる勢いによって作品の鮮やかさが増し、全く違う文脈にありながら、ユササビの作品を明るく照らすように見えた。グループ展の中の彼女の作品は、閉じられた物語でありながら、いくつかある物語のうちの一つであるように思えた。それは、作品が矮小化されたという意味ではなく、他作家の作品「も」見ることによって、様々な存在がこの世界にあることが感じられ、悲しい時間を慰めることができるということだ。

繰り返される悲しみ

 2017年の展示とのもう一つの違いは、初出作品であることと再展示作品であることの違いである。

 私は過去に失恋した時に、思い出の写真をスマートフォンから全て削除したことがある。そうすると、少し悲しみから距離をとることが出来た。しかし、ふとしたタイミングでSNSの“過去のこの日”(※7)という機能によって、昔の恋人の写真が提示されると、思いがけずショックを受けることがある。日記や動画もそうだ。作品も同じだ。作品は、作者を快い気持ちにさせたり勇気づけるだけではない。時には作者に悲しい気持ちを思い出させることもある。時間と共に忘れかけていた思い出が、作品をトリガーとして、作者を何度も傷つける。

 ユササビは

当時、「この作品を作ったことで出来事を客観的に見ることができてよかった。」というようなことを来場者に言ったが、今分かるのは、そんな都合がいい事はない、ということだ。なぜなら今この文章を書いている間や作品を見ている間、当時を思い出して心が乱されているのだから。(※8)

と述べている。

 上記のように本人が本人の作品を見て心が乱されているということを表明されているという理由で、私は作品と作者を分けて見ることが出来ない。人生であれば時が解決してくれるのだが、作品には動かしようも無い過去の時間が流れている。この過去の時間を自身の体験と重ね合わせ、私が思う幸せの形との食い違いを感じるがゆえに、ざわつく心を抱えながら作品を観賞せざるを得ないのである。

幸せのイメージの食い違い

 私の捉える「出会い系」のイメージと、ユササビの捉える「出会い系」のイメージの大きな違いについてを考えさせられ、私自身が持つ、他人の恋愛を批評するような傲慢さにも気づいた。人生についてだけではなく、作品にも幸せな結末を望んでしまうのは、物語の中の失恋の痛烈さが、私自身の記憶と密接に繋がり、感情移入してしまうからだ。私は心の奥底で「人生を思い通りにすることは難しいが作品の鑑賞体験であれば自分の思い通りになる」と高を括っていたのかもしれない。それこそ、傲慢というものだ。時に、鑑賞体験は鑑賞者の思い通りにはならず、暴力的に心をかき乱す。そして、人間の数だけ、「失恋」に対するイメージも、距離感も、全く違うという前提に立ち返ることになった。私がどれだけ、作者の幸せな恋愛を望んでも、私の理想と彼女の幸せな恋愛のイメージは明確に違う。「幸せなイメージ」は、私とユササビの間だけで食い違うのではなく、鑑賞者の数だけ、それこそ星の数ほどのイメージたちがズレ合い、決して合致することはないだろう。

 これを絶望的だと捉えることも出来るが、私は自由の在り方だと捉えてみたい。食い違いによるざわつく気持ちは、幸せの形が予め決められたものではないということを、改めて教えてくれる。

注釈

※1  スクリーニング:映像作品を上映するイベントのこと。このイベントは、阿佐ヶ谷のTAV GALLERYにて2015年に行われた。 https://tavgallery.com/kintominami/ 

※2 野方の空白:小宮麻吏奈によって運営されていたアートスペース 。https://blankof5304.tumblr.com/

※3 [『「ソフィ カルー限局性激痛」原美術館コレクションより』レポート 人生最悪の“失恋”にまつわる日々を赤裸々に表現] https://www.google.com/amp/s/ より引用。

※4 ユササビいわく、この壁の色は、パープルームが企画したqp個展 『セルヴェ』(2019年)の色を変えずに使用したとのこと。

※5  パープルーム発行[星座と出会い系、もしくは絵画とグループ展について]p.23

※6 [アーティストとギャラリストはともに歩む。小林正人✕佐谷周吾対談] より引用。

※7 Facebookの『過去のこの日』というサービス:自分自身の投稿、家族や友達からタグ付けされた投稿など、自分に関わる過去の『今日』の思い出を表示してくれる機能。公式URL より引用。 (2019年10月6日時点では公式が公開していたが、2019年11月16日時点では公式ページが解説するページを見ることができない。)

※8 パープルーム発行[星座と出会い系、もしくは絵画とグループ展について]p.11

展覧会情報

会期|2019.10.5.-10.14

時間|15:00-20:00

場所|パープルームギャラリー

企画|パープルーム (梅津庸一)

協力|シュウゴアーツ、パープルーム予備校 

URL|星座と出会い系、もしくは絵画とグループ展について

レビューとレポート 第6号(2019年11月)