房思琪(ファン・スーチー)の初恋の楽園

房思琪(ファン・スーチー)の初恋の楽園

房思琪(ファン・スーチー)の初恋の楽園

  • 作者: 林奕含,泉京鹿
  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 2019/10/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

魂の双子のような可愛いローティーンの文学好きなイーティンとスーチー。イーティンが基本的に語り部。二人は高雄の高級マンションに暮らす幼なじみ。美しいスーチーは、13歳のとき、下の階に住む憧れの五十代の国語教師に作文を見てあげると誘われ、部屋に行くと強姦される。異常な愛を強いられる関係から抜け出せなくなり、スーチーの心身はしだいに壊れていく…。スーチーが記した日記を見つけたイーティンは、5年に及ぶ愛と苦しみの日々の全貌を知り、ある決意をするが…。

北日本新聞の読書欄で知った作品。タイトルからかわいらしい印象を抱いており、強姦犯と隠ぺい体質がモチーフになっていると知らずに読んでしまった。

あらすじとしてはとても短い言葉で言い表すことが出来る。レイプとDVが行われているのに隠蔽体質の社会によって黙殺される話。ニュースなら、そんな風に簡略化できる。しかし、この小説は、そのシンプルな物語を丹念に繊細なタッチで綴る。

繊細なタッチで描く心の揺れと比喩

『リュウ・イーティンは子どもであることの一番の長所を知っている。それは、誰も自分の話を真剣には聞こうとしない、ということ。』という、生意気な出だしが軽快で軽やか。

『リュウ・イーティンが幼い頃から理解していたのは、人が経験し得る最高の感覚とは、努力しさえすれば必ず報いがあるとわかることだ』とかも好き。

また、不思議な例えもたくさん出てくる。私はいい意味で「Google翻訳のような飛躍した例え」だと思ったが、原文そのものが難解で、翻訳がかなり大変だったらしい。

  • さまざまな手で書き写される筆跡は、シャボン玉のようになめらかに吹き出されるものもあれば、生煮えの麺のようにぼそぼそしたものもあった…彼女はいつもこのノートが異なる顔のたくさんの子どもを産んだのだという幻想を抱いた
  • お爺さんははらはらと歩いてきた
  • 台湾経済が飛躍するときに一緒に飛び上がった、
  • 眼鏡をかけている人には、レンズでフケをあつめているような人もいれば、柵にしがみつくことを誘っているような細い銀のフレームの人もいる。
  • 心の中の笑いは沸き立つ水のように、うっかりすると顔から蒸散してしまう。
  • 伊紋が玄関で迎えてくれて、扉が開くと、毛毛はようやく幼い頃からなじんできた翻訳小説の原文を読めたような気がした。

よくわからない例えも、詩を読み上げるように聞こえて、ずっと聞いていたくなるように独特のリズムがある。

{仔羊の顔をしている}と形容されるスーチーは性的暴行の被害者なのだが、同じマンションのクレバーで幸せな花嫁のイーウェンは酔うと殴る花婿のDV被害者である。隠ぺい体質の社会では、彼女たちが引きずり込まれている闇は見えにくく、本人自身が自分が光のある場所に行く権利があることに同意しきれない。

ノンフィクションでもなく告発でもない

プレスリリースで、作者は「私はスーチーではない」と、ノンフィクション作品であることを否定する。しかし一方で、「実話をもとにした小説である」と記している。さらに、社会問題の告発でもないと言い、スーチーを裏切ったのは(スーチーが大好きだった)「文学」であると言う。

しかし、どれだけ「これはノンフィクションではない」と言っても、告白した友人に汚ならしい目で見られたことの残酷さや、見放してしまった側のイーティンが抱いていた見た目のコンプレックスとすれ違い、そして彼女を救いきれなかったことへの後悔の、繊細な語りは、<ある心の揺れ>をありありと写し取っている。

作者が求めたのは、『きっと本当にいろんなところで起こっている事実だろう』と思って、沸く<怒り>の先にあるものだと思う。スキャンダラスな事実を述べられて動くような心の動きではなく、この本の場合は…<文学に専念し、ほんとうに取り組み切った>という作者の事実と、<それでもなお、文学は裏切った>という、到達したものだけが手にしてしまった感覚の提示をしたのだと思う。もちろん、最初から客観的に「裏切るということを見せたい」という思いで綴ったのではなく、「裏切るかわからないが、徹底的に書いてみよう」と取り組んだ、どちらかというと先の見えない登山に取り組んだ結果のように見える。つまり、何が得られるか、獲得できるか保証はできずに取り組み、取り組み切ってつかんだものがたまたま、「それでも文学は救ってくれなかったし、そもそも文学が裏切った」という感覚なのだろう。そして、作者は刊行2か月後に死んでしまった。

スーチーの戸惑いの「描写」や強姦犯を愛しているからこそ苦しい気持ちの「描写」や、大好きな友人に告白したら嫌われてしまうだろうと逡巡した「描写」や、イーティンが感じた、尊敬していた賢いお姉さんのイーウェンが実はDVを受けていることに気づいたときのやさしさをあげるわけではなく少し不快に思うような「描写」によって、「文学として文字とレトリックで構成すること」に専念するということそのものだったのではないだろうか。そして、専念した結果、裏切られたという思いがどっと覆いかぶさってきたのではないだろうか。

作者の本懐ではないだろうが、一応社会的な部分にも触れてみたい。

加害者の『先生』みたいな人は、日本にもたくさんいると思う。「生徒も同意した」あたりは本当なんだろうけど、その同意はどんな環境で引き出された同意なんだろうか。この作品のスーチーの心の戸惑いの描写を見ると読んでいる方もボロボロになってしまう。

スーチーと同じような学生は本当にたくさんいるのだろう。強姦犯を愛しているからこそさらに苦しい。

ラストは、パラドックスのようなセリフで終わるが、それは構成上ありふれており、綺麗な包み紙で最後に美しい折り目をつけるみたいなセリフだと思った。それゆえに大事なセリフだ。

スーチーの靴の中に立つ

発表後自殺してしまった作者の『彼女の靴の中に立ってほしいと思うのです』も、台湾的な比喩言葉なのだろうか。

絶望しかない物語に、つい、光を見いだせるような解釈を考えてしまう。

しかし、プレスリリースの著者の発言に

「もし読み終わって、かすかな希望を感じられたら、それはあなたの読み違いだと思うので、もう一度読み返したほうが良いでしょう」と、否定される。

ニュースの見出しにしてしまえば、簡単に言い表せる事実を、告発としてではなくて、「さらに細やかなタッチで、あるいは精密すぎるタッチで」描かれている。文字とレトリックによって書くことによって、こんなにも客観的な姿勢を貫いているのに、芸術や文学が裏切るということをはっきりと言う。

作者は、ほのかな希望と絶望の間を最後まで揺れ続けている。

この本を読むときは、スーチーの靴を履いて、つまり、スーチーの人生を生きるようにこの作品の精密なタッチに触れることができる。しかし、私たちは読み終わってから、靴を脱ぐことが出来、『辛い話だったね』と言いながら、加害者を擁護するような社会に戻ってしまう。

それでも、作者の希望を裁ち切るように突き放すような書き方が気になって、またこの本を思い返すことがあるだろう。靴を脱ぐことができない人たちを前に、『怖かったね、可愛そうだったね、そんな辛いことばかり話さなきゃいいのに、』なんて、私はこれからも言ってしまうのだろうか。

まだ、私は覚悟ができない。