健康な街。見えているものをできるだけ多く語ることで、語りきれなかった見えていないものが見えてくる

健康な街 プライベイトもとてもよく、小林さんのマッチポンプみたいな作りも、下山さんのある志向への目線も、五十嵐さんの街をネガでみるとこうかもという感じも、そして…

小林さん

マッチポンプと書いたけど、水が汚れ続けるということは、生活の場が息をしていないようになってしまうことに通じるように思う。新しい水を巡らせたり、引き入れたりするにはどうしたらいいのか、考えた。

慈さん

寝転がって映像を見てパフォーマンスを体験して、(私の体験は少し特殊バージョンだったか、私が脳内で別の体験を展開させてしまったかのどちらか) 私たちは私たちの住んでいるところを健康で当たり前のところだと思っていたけど、簡単に崩壊し、あらゆる階層から見た街があり、わかりあいづらい、または、解り合うにはまだ遠い、それぞれのネガみたいなものを見せつけられながら、プライベートな場所から、また私だけのプライベートな場所へと帰る体験をするのだった

五十嵐さん

さらっとやってるけどすごくない?大変な搬入ですよこれは。そして、やはり文章もいい。ぱっと見たときに、前回の慈さんの展示を思い出した。レールっぽいから?ネガになってしまった街って感じがする

下山さん

健康な街の下山さん、「要素が多い」みたいなことを伝えてしまったけど、要素が多いんじゃなくて、こんなに語りつくしてもまだ語りつくせない遠さについて語っていたのかもしれない。 ゆっくり、様々な視点に潜って、様々な手がかりを掴んで見せてくれる彼女の物質を眺めてはじめて、「それでも語られなかったネガの部分」に光をあてると言うのが、鑑賞者として、生活に帰ってから(この体験を持ち帰ってから)できることなのかもしれないな。

「要素が多い」というのは、私がよく言われることでもあります。

情報

タイトル:「健康な街@プライベイト」

2019.8/2(金)~8/12(月)平日 17-20 土日祝日 13-20

https://2019private.amebaownd.com/

MARTA KLONOWSKA

富山市ガラス美術館 「マルタ・クロノフスカ 不思議ないきもの」

📍富山市ガラス美術館

マルタ・クロノフスカですね。日本で最初の個展が富山市で行われたわけですが、名画の中の動物や靴を選んで作品にしているんですね。
入り口の文章で、「刺繍をするように」という言葉が気になって、誰が書いた言葉なのか、

  • クロノフスカがよくそのように語られる言葉なのか
  • クロノフスカの言葉なのか
  • ガラス美術館の言葉なのか

が気になって伺ったら、学芸員の浅田さんという方の言葉だそうです。
とても良い言葉だな〜と思いました。ガラスというものは、壊れやすいものでもあるけど、壊れて破片になったら、今度は凶器になるものなので、刺繍という言葉を使うことで、その柔らかさとサディステックな部分の両方を紹介できているような。名画を引用することで、色っぽい感じも出てると思います。また、動物だけではなく靴も作っているところに、ぐっと興味を惹かれました。ガラス破片で作られた靴って、危なっかしくて色っぽいですよね。「不思議ないきもの」というタイトルは、市民向けのタイトルだとは思いますが、靴もあるのだから、ちょっとクロノフスカの表面の部分をさらっとつまむくらいのタイトルでしかなくて、展覧会名としては、自分の首をしめるようなタイトルだと思います。作家名だけで大丈夫でしょう、まあ、そしたら市民が来ないという思いがあるのかも。

あと、クロノフスカへの批判としては、一色刷りはどうなんだろう。汚く見えるし、名画の製作者の意図と逸れてるので、ちょっと傲慢な感じさえします。

そんな感じです。

写真は、 クロノフスカの『庭園の犬(トマス・イエペスによる)』という作品でした。

Garden View with a dog after Thomas Yepes 2014

I feel refer to the “after” the traditional painting, it causes the elegant mood. I found the word “kind of Embroidery” by the curator Ms. Asada is great. #martaklonowska

6月16日の #tttv 。女の子の「セブンイレブンの準備してるの?」について

www.tokyoartbeat.com

【セブンイレブンをコピペした中央本線画廊での美術家・トモトシの個展について、警察への通報があった際に現場にいた私が見た状況と思ったことをテキストに書いたものです。美術というものの社会的状況におけるアクティビズムや政治主張的な運動として消費されていくだけなのは、少し作品の核心部と違うと思うので、現場にいたり作家一個人の姿勢のようなものを(※)わりと継続的に見ている人間の一つの感想として読んでいただけたらと思います。作家にべったーじゃなくてもいいんじゃない?って言われたので、ここで…】

トモトシさんはこの動画群を世に出す前に、かなりの割合で「撮影失敗」している。
例えば、メルカリでミニストップの制服を購入し、ミニストップに行って「掃除しますね」と店員に声をかけて掃除したり棚卸しをしたりする。彼曰く、「20件行って4件くらいOKされる」とのことで、見事に4/5は不審がられて断られている。

私はその話を聞いた時、「この人の気持ちの【もち】はすごいな」と素直に感心した。
私だったら、確実に成功する方法を選ぶか、旋風のごとく押し通す。
しかし、トモトシさんは、じわじわと、成功の5倍くらいの失敗案件を重ねて、いわゆる世間に、「うっかりオッケー」をもらって、監視カメラに映っていても違和感がない、いやしかし、アルバイトでもないのに実は掃除をしている謎人間をカメラにおさめることに成功する。
厳しいことを言えば、私は彼の「フルーツとしてお金を売る」は、とても好きな作品でありながら、どこか牧歌的で、コミュニケーションをとることを対価にしすぎているようにも思っていた。彼はよく自分の作品を「ワンアイディア」というが、それはよくも悪くもその通りで、「ワンアイディア」を世間に投下することによる波紋に、期待を抱きすぎているように私には思える。

今回の展示においては、cctv的な作品群が並べられているようにも思えるけど、見る側からすると、すぐに没入できないというか、作家のアイディアに辛抱強く入っていける余地が残されていないように感じた。あるいは、見る側はそんなに気持ちのもちが良くない(ように設計されている)。インスタレーションの展示は、シングルチャンネルなら誰がインストールしてもなんとか見ることができると思うけど、今回の多くのチャンネルを見せる作品は、それぞれの意図がほとんど違った問いを狙ってばらばらに作ったものなので、どうしてもツルっと画面を見て終わってしまうように思う。それこそ、「フルーツとしてお金を売る」でお金を買った人くらい、足を止めて作家の意図をじっくりどっしり聞いてくれる人が、じわじわとその良さを楽しめるような設計だと。

話は変わるけど、私が来た時に、ドアが開いて、黄緑のパーカーを来た方が、「お店の子?」と聞いて来て、私は違いますが入れるみたいですよと答えた。その人こそ、苦情通報の本人だったわけだけど、警視庁の服を着た人も来て、その人は割とおおらかで、しかし、「パロってるならちょっと変えないと」とか、意図とずれていく、市井の意見も聞けたのが良かった。

そして、外のソファで本を読んでいたら(トモトシさんにその騒動の録音?を送信していたので待っていた)、小学生の女の子が通りかかって、私に、「セブンイレブンの準備してるの?」と聞いて来た。セブンイレブンの準備、してるのかもしれないね、どうしてそう思ったの?と聞くと、「セブンイレブンだから」と返って来た。準備に見えるということは、ここは、まだセブンイレブン未満なんだろうけど、でも準備をしていると思えるくらい、ほぼセブンイレブンなんだと思って、ちょっと感動した。私は、こんなに大変な思いや、信じられないくらい、私だったら2回くらいでめげてやめているであろうことを、コツコツと、とりあえず意図となんとかぶれないように注意して続けている作品が、これはすごいな、と思った。(批評じゃなくて友人論になってしまったのが恥ずかしい。)
そういえば、警視庁の人が来た時、トモトシさんが黄緑パーカーの人に、「みんながちょっと笑顔になれるようなことがしたくて」と言っていて、私は嘘つけよ、と思ったけど、よく考えたら、トモトシさんにとっては本当にみんなを笑顔にしたいのかもしれない。私はそれは美術とは違うと思うけど、トモトシさんが捕まり慣れしすぎて「みんなを笑顔にしたくてやったんですよね」といったわけではなくて、マジで、マジで本心でみんなのために、なんだか、もはやテーマとかとかなりずれてるかもしれないけど、むしろずれすぎて、一周してドストライクど真ん中に、「不思議な社会」への提起というテーマに届いてしまっているのかもしれない。私は「みんなが笑顔になれる」ていうのは美術とは違うと思うけれど、でも。

※作家一個人の姿勢というのは、彼のスタンスが世相の反映を切り取ったものでも、表現というものの現代の社会的な立ち位置を代表したものでもないということだ。彼の今後の動きが注目されるが、少なくとも私だったらそうじゃないかという考えでしかないが、彼は既存の考えで捉えられる程度の「これが今の社会だよね!」的なものの代表として扱われることを、ひどくむずがゆく思うのではないか。