地球に散りばめられて

地球にちりばめられて

地球にちりばめられて

言語学を学ぶ学生のクヌートが、デンマークでテレビ番組に出ていた「自分で作った言語を話す」Hirukoに会い、旅をする話。Hirukoの言葉は、誰もがふと理解できてしまうようにできていて、そのこと自体がファンタジーのような要素を与えている。

Hirukoの故郷は日本を想起させ、未来がたくましい想像力によって描かれているので、この、勝手に今の動きづらい、変わることの想像すらできないような現在が、こんな風に変わるかもしれないというわくわく感がある。 

「行動力のある言語」という感じがする。演劇で、言語によって空間が立ち上がる時を見るような力。

とても面白かった。

ディスタント

ディスタント

ディスタント

📘の紹介 「ディスタント」の中の『アメリカの風景』

①那覇や大阪や夢の中の風景。それは、目まぐるしく変わる、[動く風景]。過去を語っていくようでいて、会話では今行われているように語られるので「今向き合っているかのように」あるいは「現実に引き戻される」、浮遊した心地にさせられる。

②自分が見た風景だけではなく、動く風景、例えば、父の見た風景も見るように、ぽつりぽつりと語られる。でも止まらない列車のように話は進む。

③1日の中で色々なことをする主人公。当然、ミヤギさんに重ね合わせて読む…、けど、色々と混ぜてあるはず。勝手に「絶望」する。過去への後悔の感覚。「反省」ではない。なぜなら、もう一度行われることは永遠にないから。未来のない、改善しようのないものは反省出来ない。

④だけど、取り返しがつかないことを経てからしか、「そんなこと考えても仕方ない」と自分をなだめすかす技術は培われないし、相手の見る風景を想像する力も伴わないのだろう。大人になって手に入れた技術を、子供の時に使えていたらいいのに。(でも、それなら使わなくてもいいのだ)

アメリカ紀行

『アメリカ紀行』小説のように読んだ。梨木香歩さんの『春になったら~』のようなリズム感。共感ではない形の、無関係な入れ替わり体験のようなことについて書かれたところが特に印象に残った。また、正しさのパッケージについてや地鎮のような礼儀についても。最後の章の特殊なリズムも。

健康な街。見えているものをできるだけ多く語ることで、語りきれなかった見えていないものが見えてくる

健康な街 プライベイトもとてもよく、小林さんのマッチポンプみたいな作りも、下山さんのある志向への目線も、五十嵐さんの街をネガでみるとこうかもという感じも、そして…

小林さん

マッチポンプと書いたけど、水が汚れ続けるということは、生活の場が息をしていないようになってしまうことに通じるように思う。新しい水を巡らせたり、引き入れたりするにはどうしたらいいのか、考えた。

慈さん

寝転がって映像を見てパフォーマンスを体験して、(私の体験は少し特殊バージョンだったか、私が脳内で別の体験を展開させてしまったかのどちらか) 私たちは私たちの住んでいるところを健康で当たり前のところだと思っていたけど、簡単に崩壊し、あらゆる階層から見た街があり、わかりあいづらい、または、解り合うにはまだ遠い、それぞれのネガみたいなものを見せつけられながら、プライベートな場所から、また私だけのプライベートな場所へと帰る体験をするのだった

五十嵐さん

さらっとやってるけどすごくない?大変な搬入ですよこれは。そして、やはり文章もいい。ぱっと見たときに、前回の慈さんの展示を思い出した。レールっぽいから?ネガになってしまった街って感じがする

下山さん

健康な街の下山さん、「要素が多い」みたいなことを伝えてしまったけど、要素が多いんじゃなくて、こんなに語りつくしてもまだ語りつくせない遠さについて語っていたのかもしれない。 ゆっくり、様々な視点に潜って、様々な手がかりを掴んで見せてくれる彼女の物質を眺めてはじめて、「それでも語られなかったネガの部分」に光をあてると言うのが、鑑賞者として、生活に帰ってから(この体験を持ち帰ってから)できることなのかもしれないな。

「要素が多い」というのは、私がよく言われることでもあります。

情報

タイトル:「健康な街@プライベイト」

2019.8/2(金)~8/12(月)平日 17-20 土日祝日 13-20

https://2019private.amebaownd.com/

thegirlcalledjustice

学園生活を送るJustice.
彼女は他の子とちょっと違う、クレバーで時に大胆不敵な女の子
Highbury Houseは良家の子達のための寄宿舎で、ルールが多くてめんどくさい…
そんな単調な日常の中に、恐ろしい殺人が!
一体誰が?
Justiceの観察眼によって、ファンタジックなミステリーが解き明かされる…
殺人犯を見つけるため、Justiceは新しい友人の手助けを求める…

↑あらすじはこんなかんじ。ファンタジーみもありつつ、学校の窮屈さを描くで筆がのっててうける。どこで筆がのってるかってのも読むときに面白い要素。

MARTA KLONOWSKA

富山市ガラス美術館 「マルタ・クロノフスカ 不思議ないきもの」

📍富山市ガラス美術館

マルタ・クロノフスカですね。日本で最初の個展が富山市で行われたわけですが、名画の中の動物や靴を選んで作品にしているんですね。
入り口の文章で、「刺繍をするように」という言葉が気になって、誰が書いた言葉なのか、

  • クロノフスカがよくそのように語られる言葉なのか
  • クロノフスカの言葉なのか
  • ガラス美術館の言葉なのか

が気になって伺ったら、学芸員の浅田さんという方の言葉だそうです。
とても良い言葉だな〜と思いました。ガラスというものは、壊れやすいものでもあるけど、壊れて破片になったら、今度は凶器になるものなので、刺繍という言葉を使うことで、その柔らかさとサディステックな部分の両方を紹介できているような。名画を引用することで、色っぽい感じも出てると思います。また、動物だけではなく靴も作っているところに、ぐっと興味を惹かれました。ガラス破片で作られた靴って、危なっかしくて色っぽいですよね。「不思議ないきもの」というタイトルは、市民向けのタイトルだとは思いますが、靴もあるのだから、ちょっとクロノフスカの表面の部分をさらっとつまむくらいのタイトルでしかなくて、展覧会名としては、自分の首をしめるようなタイトルだと思います。作家名だけで大丈夫でしょう、まあ、そしたら市民が来ないという思いがあるのかも。

あと、クロノフスカへの批判としては、一色刷りはどうなんだろう。汚く見えるし、名画の製作者の意図と逸れてるので、ちょっと傲慢な感じさえします。

そんな感じです。

写真は、 クロノフスカの『庭園の犬(トマス・イエペスによる)』という作品でした。

Garden View with a dog after Thomas Yepes 2014

I feel refer to the “after” the traditional painting, it causes the elegant mood. I found the word “kind of Embroidery” by the curator Ms. Asada is great. #martaklonowska

LOCAST

声がミニマム

福生についてを読んで

みなみしまさんの、「地元を観光するために」というのを読んで
「迷子」が面白いと思ったのですが、基本的に福生で生まれた彼が、福生を再度観光することは可能か、というですね、しかも、他人の欲望のため(つまり地方創世てきなビジネスに参じるためではなくて、ただただ、観光を楽しめるのかと。)

「家の中で迷子になる」ということについて、坂口恭平さんを引用して、(このページの写真も良いんですが)論じているんですが、「観光は、迷子にならないと観光じゃない」ということは、私も観光業に携わりながら、そう思います。

片付け

たぶん、家の中で迷子とかけながら、旅と片付けが似ているという前提で、話が展開していくんですが。

  • 地元は家みたいなもの
  • 観光は迷子になること
  • 家の中で迷子になることが観光をすることのヒントになる
  • 旅の間に出会うものは、過去と結びつくことがある
  • 他人と一緒に旅をすると、他人はいろんな過去を持っているので、自分とは違う過去に結びつくことがある
  • (ところで)旅と片付けは似ている
  • 「片付け」は、『自分の手で片付けるべきだ』というのが、セオリーである(→一見、否定しづらい)(ミニマリスト(アートではなく生活のほうの)のツイッターでは、自分の手で片付けるべきというのの否定意見は私の観測範囲ではみたことないです)
  • しかし、ここで、片付けを他人の手によって行ってもらう
  • そうすると、家の中で迷子になることができる
  • そのように地元を観光すると、地元を観光することができる

ということで、私はみなみしまさんは地元を観光できたんじゃないかな、と思ったわけです。

拒否

ここで、私が思ったのは、しかし、地元が家であるならば、「ここは開けないでくれ」と言ったような「拒否」が起こるんじゃないかな、と思ったんですね。だから、地元を観光することは可能だけど、実は、「みなみしまくんの同行者」にとって、もっと深い体験を提供するには、「みなみしまくんのような地元の人」と共に観光するという体験の中には、「強烈に拒否られてる場所、磁場」とかが、あらわになってくるわけで、見せたくないような場所を完全に避けながらガイドされているなあってことをつかめると、より一層、ディープな所にいけるのかな、と思います。地元をガイドすることは、ボランティアガイドさんとかではよくありますね。「地元を観光する」の次は、「地元で観光したくないところを避けてガイドされている」ことに、「気づく」とかが、面白そうだな、と思っています。

82年生まれ、キム・ジヨン

「82年生まれ、キム・ジヨン」

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

冒頭から15分で、わっと泣き出してしまいそうになった。

幼少〜小学生

小さいころから、自分でも気づかない間に、女性は当たり前に、小さくいろいろなものを損なわれている。

それが当たり前で、みんなそうで、あの頃はみんなそうだったから。

周りの男性は、ひどい時もあるが、基本は寄り添ってくれて、間違えて怒った先生も、「気づかずに怒ってすまない、なにかしてほしいことはあるか」と優しく言ってくれて、心がほどけるのだが、追い打ちをかけるように、「でもあいつはお前が好きなんだよ」と、こちらでは理解できないことを言う。

なぜ、精神的に未熟な男の子のために、女の子は損なわれなければいけないのかを、ずっと諦めていたのかもしれないけど、いくつになっても、未熟さによって、誰かが損なわれるべきではないと、本当に思った。何歳になっても、問題は複雑さを極めていくだけで、ジェンダーイコールについてを、みんな、小説の中ではじっと聞けるのかもしれない。少なくとも、この本が「売れてる」ということが、これから、大きな力になっていきそうに思う。 

就活

出てくる誰もが優しくて報われない

女性やなんらかの弱い立場にたつ人であれば、必ず感じたことのある矛盾と悔しさのエピソードに溢れているのに、直接的にえぐるというよりは、やわらかい眼差しで整理していく。
出てくる(男性含め)登場人物は、主人公に意地悪なわけじゃない。嫌な人はいない。だけど、ガラスの天井と、出口のない迷路にぽつんと取り残される。ジェンダーイコールの問題は、マジョリティv.s.マイノリティではない。敵は、どうしようもない「慣習」であり、慣習は私たちのアイデンティティに深く結びついている為、本当に事態は複雑なのだと思う。

ラスト

後味を悪くするのは、本当に「正しい」と思った。

全体的に

読んでいる間中、ほんとうに胸がつまる思いで、そうだそうだそうなんだよ、と思いつつ、小説の語りの「カタルシス」に救われる思いもあった。

あと、私の夫は「家事を手伝う」とは絶対に言わない。こういう、「これを言うと他人が損なわれてしまう言葉」も学べるので便利。彼も、「手伝う」と言ってはいけない理由を、私に出会う前に学んだのだと思うので、かなり意識的に、言わないし、言っている人をたしなめるが、知らなければ、または、そのようなものを深く理解していなければ、言ってしまうと思う。

私自身、知らぬまま、誰かを損なうことがあると思う。私はたまたま女性に生まれただけで、きっと、もっと違う人たちを傷つけてしまっているのではないか、私は、本当に初心にかえらなければならないと思う。

(電車の中で、「そんな腹になるまで地下鉄に乗って働くような人が、何で子どもなんか産むのさ」と言った女の子は、形を変えた私だと思う、そういうことを本当に思っているわけじゃないんだけど、そういう権化になってしまう恐れを、私は抱えている、そうさせたのは、様々な仕組みだということは理解しているけど、まだ、逃げきれていない。)

6月16日の #tttv 。女の子の「セブンイレブンの準備してるの?」について

www.tokyoartbeat.com

【セブンイレブンをコピペした中央本線画廊での美術家・トモトシの個展について、警察への通報があった際に現場にいた私が見た状況と思ったことをテキストに書いたものです。美術というものの社会的状況におけるアクティビズムや政治主張的な運動として消費されていくだけなのは、少し作品の核心部と違うと思うので、現場にいたり作家一個人の姿勢のようなものを(※)わりと継続的に見ている人間の一つの感想として読んでいただけたらと思います。作家にべったーじゃなくてもいいんじゃない?って言われたので、ここで…】

トモトシさんはこの動画群を世に出す前に、かなりの割合で「撮影失敗」している。
例えば、メルカリでミニストップの制服を購入し、ミニストップに行って「掃除しますね」と店員に声をかけて掃除したり棚卸しをしたりする。彼曰く、「20件行って4件くらいOKされる」とのことで、見事に4/5は不審がられて断られている。

私はその話を聞いた時、「この人の気持ちの【もち】はすごいな」と素直に感心した。
私だったら、確実に成功する方法を選ぶか、旋風のごとく押し通す。
しかし、トモトシさんは、じわじわと、成功の5倍くらいの失敗案件を重ねて、いわゆる世間に、「うっかりオッケー」をもらって、監視カメラに映っていても違和感がない、いやしかし、アルバイトでもないのに実は掃除をしている謎人間をカメラにおさめることに成功する。
厳しいことを言えば、私は彼の「フルーツとしてお金を売る」は、とても好きな作品でありながら、どこか牧歌的で、コミュニケーションをとることを対価にしすぎているようにも思っていた。彼はよく自分の作品を「ワンアイディア」というが、それはよくも悪くもその通りで、「ワンアイディア」を世間に投下することによる波紋に、期待を抱きすぎているように私には思える。

今回の展示においては、cctv的な作品群が並べられているようにも思えるけど、見る側からすると、すぐに没入できないというか、作家のアイディアに辛抱強く入っていける余地が残されていないように感じた。あるいは、見る側はそんなに気持ちのもちが良くない(ように設計されている)。インスタレーションの展示は、シングルチャンネルなら誰がインストールしてもなんとか見ることができると思うけど、今回の多くのチャンネルを見せる作品は、それぞれの意図がほとんど違った問いを狙ってばらばらに作ったものなので、どうしてもツルっと画面を見て終わってしまうように思う。それこそ、「フルーツとしてお金を売る」でお金を買った人くらい、足を止めて作家の意図をじっくりどっしり聞いてくれる人が、じわじわとその良さを楽しめるような設計だと。

話は変わるけど、私が来た時に、ドアが開いて、黄緑のパーカーを来た方が、「お店の子?」と聞いて来て、私は違いますが入れるみたいですよと答えた。その人こそ、苦情通報の本人だったわけだけど、警視庁の服を着た人も来て、その人は割とおおらかで、しかし、「パロってるならちょっと変えないと」とか、意図とずれていく、市井の意見も聞けたのが良かった。

そして、外のソファで本を読んでいたら(トモトシさんにその騒動の録音?を送信していたので待っていた)、小学生の女の子が通りかかって、私に、「セブンイレブンの準備してるの?」と聞いて来た。セブンイレブンの準備、してるのかもしれないね、どうしてそう思ったの?と聞くと、「セブンイレブンだから」と返って来た。準備に見えるということは、ここは、まだセブンイレブン未満なんだろうけど、でも準備をしていると思えるくらい、ほぼセブンイレブンなんだと思って、ちょっと感動した。私は、こんなに大変な思いや、信じられないくらい、私だったら2回くらいでめげてやめているであろうことを、コツコツと、とりあえず意図となんとかぶれないように注意して続けている作品が、これはすごいな、と思った。(批評じゃなくて友人論になってしまったのが恥ずかしい。)
そういえば、警視庁の人が来た時、トモトシさんが黄緑パーカーの人に、「みんながちょっと笑顔になれるようなことがしたくて」と言っていて、私は嘘つけよ、と思ったけど、よく考えたら、トモトシさんにとっては本当にみんなを笑顔にしたいのかもしれない。私はそれは美術とは違うと思うけど、トモトシさんが捕まり慣れしすぎて「みんなを笑顔にしたくてやったんですよね」といったわけではなくて、マジで、マジで本心でみんなのために、なんだか、もはやテーマとかとかなりずれてるかもしれないけど、むしろずれすぎて、一周してドストライクど真ん中に、「不思議な社会」への提起というテーマに届いてしまっているのかもしれない。私は「みんなが笑顔になれる」ていうのは美術とは違うと思うけれど、でも。

※作家一個人の姿勢というのは、彼のスタンスが世相の反映を切り取ったものでも、表現というものの現代の社会的な立ち位置を代表したものでもないということだ。彼の今後の動きが注目されるが、少なくとも私だったらそうじゃないかという考えでしかないが、彼は既存の考えで捉えられる程度の「これが今の社会だよね!」的なものの代表として扱われることを、ひどくむずがゆく思うのではないか。