ミッドナイトスワン

ミッドナイトスワン見ました。

ネタバレあります。

ネタバレ

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観察と感受性の肯定

見てよかったシーンがいくつもある。例えば片付けられた部屋とか、ある種の嫉妬から個撮を進めてしまうリンとか、公園で躍りを教えるときに「今ちがうとこやってるもん」とかの理不尽な楽しさとか、リンの父の「町の教室にいれてるだけですから」という言葉とか、観察眼が優れていた。同じように観察し、モヤモヤを感じている人間の感受性と眼を肯定しているようだった。

依存された者がなぜサクセスせねばならないのか

ラストシーンの海、いわゆる逆境が押し寄せてくるということをシーンで体現していてよかった。しかし、同時に依存者が依存先に美しい夢を押し付けすぎていることを美談として描きすぎているようにも思うし、さらに言えば、カタルシスに飢えた鑑賞者の罪についても考えた。

この映画は、ある種の依存について描いている。その依存の弱者であるイチカちゃんが、「誰のために働いてると思ってんの?」と言ってしまう依存者たちの依存を受けて羽ばたいて大丈夫かな?これは美しいと言えるのかな、という感情があった。

モチーフとして、バレエが出てくる「花とアリス」と比較してみる。花とアリスのオーディションのシーンは未来への広がりを感じる。しかし、イチカのバレエは「見てて」もらいたすぎて、自己犠牲を無償の愛とすり替えて描いているようにも捉えられる。自己犠牲は、ひとつの依存である。イチカがそのままただ台所で座っていることを肯定しかけていたナギサの無償の愛にリアリティを持たせようとして、「誰のために働いてると思うんだ」とナギサに言わせたのかもしれない。しかし、ナギサの着地点が、自己犠牲を描くカタルシスという形になったことが物悲しい。ナギサは、本当には自分とイチカ両方の幸せについて実現しようとしない。なぜイチカはサクセスしなければならなかったのか、なぜただ居るだけではナギサに肯定されなかったのだろうか。

「ただ居る」だけでは認められない社会と物語

依存による精神的社会的ネグレクトを受けた一番の弱者(=イチカ)がサクセスせねば成り立たない物語であることが悔しかった。ミッドナイトスワンは、“依存された弱者が「ただ居る」だけでは認められない社会”を描いていたのではないだろうか。